Story
リバーシブルアフガン編み・発明考案者
村上房子のあゆみ
「銀座のネオンが彩る夜空、色とりどりの花が咲き誇る花壇、そんな華やかさを着られないかなあと思った。」
着る、とは編み物の着物のことで、昭和30年代初め、ネオンと花の夢を織り込んだ「リバーシブル・アフガン編み」という特許技法を考案した。ベスト、コート、ショールなどが両面着られるというのが特徴で、その独特の美しさは、新しい編み物ファンを掘り起こしている。
父が彫刻家、母が洋品店主という家庭に生まれ、早くも小学校一年で編み棒を持ち、2、3年後には弟のおむつカバーが編めるはどに腕を上げた。
結婚してすぐ夫が召集を受け、専門学校で学んだ技術を生かして和洋裁と編み物の教室を明く。昭和18年のことで、編み物人生のスタートとなった。
戦後、教室活動を本格化し、奥行きのあるアフガン編みを中心に技術を研究するうち、従来の編み方では、編み幅が棒の長さだけしか取れない不便さを痛感して、改良に乗り出した。
従来のアフガン編みは、片方だけにカギの付いた編み棒で、棒を前進させながらカギで目を拾い(往路)、次には棒をバックさせながらカギを引き抜いて編んでいく(復路)という方法だった。
これだと、編み幅が自由にならず、編み地の裏も汚かった。そこで、まず編み棒の両端にカギを付け片方のカギは往路専用、他方のカギは復路専用として編む方法を考えだした。これで列車のスイッチバックのように、編み地が “一本の線″ でつながり、編み幅を希望の長さに出来ることになった。
同時に編み地のよじれや、裏地の汚さなどの問題点も解消。両面が着られるどんなLサイズでも編めるようになった。また、往路と復路の毛糸の色や目の拾い方を変へることによって、表裏で色も模様も違うもの、裏の色が表に透けるものが編めるなど表現法も自在になったと言えば一言だが、ここまで来るのに十年を要したという。子育て家事と両立させながらの研究で、仕事部屋に寝込むこともたびたび。「血を吐く思いの毎日だった。それでも、スイッチバックに気が付いたときは、大声で\やったあ″と叫んでしまった」。
帽子などの筒形編みも含めて新技法をまとめ上げ、編み棒の両端を色違いに着色したものと一緒に、45年全国発明婦人協会主催の発明展に出品、文部大臣賞(その功績で59年に黄綬褒章)を受けた。
54年にはタクシーに乗っていて事故に遭い、九死に一生を得たが現在は、体内にペースメーカーを入れ、家族と教室の生徒に支えられて仕事に復帰。現在よみうり日本テレビ文化センター(北千住・京葉・藤沢) など、三越文化センターで講師を務めまた自治体の編み物教室でボランティア活動をするなど、「手作りの美」 の普及に燃えている。
遠く九州から通って来る生徒もおり、「中年の女性の腰の据わったパワーは、ものすごいですよ」と、うれしそうに笑う。
手工芸大博覧会
よみうり・日本テレビ文化センター北千住・日本手工芸指導協会、松屋浅草レディスカルチャー主催、読売新聞社後援「88手工芸大博覧会」が4月15日から6日間、東京・松屋浅草7階大催場で開かれた。
同博覧会は、北千住駅ビル 「ウィズ」 9階で手工芸・服飾教室など180講座210教室を開講。よみうり・日本テレビ文化センター北千住での講座を開いている講師らが、それぞれの作品を展示、即売するもので会場にはリバーシブルアフガン、手織り、彫金アクセサリーなど手作り32講座が出品、大勢の女性たちでにぎわった。
いろいろな講座の作品が披露されるなか、村上房子ニットデザイナー(東京・日本橋蛎殻町、村上学園園長)が同センター北千住で講義している「リバーシブル・アフガン」編みのサマーセーター、ベスト、春のコート、帽子など150点展示。村上デザイナーの指導を受けている生徒の作品も展示されているもので、子供ベストなどに売約済みの赤札があちこちに貼られ、即売品の帽子は盛んに売られ人気を集めていた。
初日の15日午前に日本テレビが取材に訪れ、真っ先にリバーシブルにカメラが向けられ、村上デザイナーと助手の二女、真理子デザイナーは記者に作り方の説明にあたるなど、リバーシブルがひと際の浮き彫りをみせた。このもようしが当日、午後3時のニュース番組で放映された。また4月18日〜24日まで第28階、「暮らしの発明展」が全国発明婦人協会主催で日本橋三越本店で開催された。
身体にハンディキャップを背負いながらも 社会に役立ちたい—
今から8年前、私はタクシーに乗っていて横から出てきた乗用車と衝突するという事故に遭う。その時のショックと、続くストレスが原因で心臓にある脈樽を起こす仙腺が切断されてしまった。
精密検査でそのことが判明した時には、脈樽が30しかなく階段を上ると息苦しく、何をしても疲れて生活も思うようにまかせない毎日であった。検査の結果、心臓に脈樽を起こすためのペースメーカーを設置することになり、ペースメーカーを入れることによって脈樽は70を保つようになったのである。然し以前のように活発に動き回ることばできず運動は絶対禁止となる。
私は交通事故以後、身体障害者となり一見したところ元気なように見えるが、ペースメーカーの電地が切れてしまうと、脈樽はたちまち下がって歩くことさえままならなくなる。事故のため一時は絶望的な気持ちになったが、このままではいけないと思い何か社会のために役に立ちたいと考えるようになった。
私は6歳の時から、毛糸の編み棒を持って以来、手作りの編み物の世界に携っている。自宅で編み物の学校を開き3人の子供を育てながら、40数年、より楽しく美しい編み方を研究してきた。私が考案した(リバーシブルアフガン)両面編みは、表と裏で違った模様ができ、然も編み棒は両端に鈎のついたもの1本を使うだけのとても簡単な方法である。
数年前、全盲の婦人が高崎から当学園を訪ねてきて、この両面編みを覚えて帰り、数カ月後、作品を持ってご主人と見えたが、表と真の毛糸の種類を変えて編むという立派な完成作品を見て大変感激させられた。
男性でも女性でも子供でも、健常者は勿論のこと、歩行困難だったり目が見えない体にハンディキャップがある人でも、編み棒一本で、手作りの楽しさを味わうことができるということを知っていただきたい。
私もあとどれくらい生きられるかわからないが、できるだけ多くのかたの役に立って、編み物の仲間づくりをひろげていきたいと思う昨今である。また日本文化の発展に役立ち、更に世界中の皆様にも喜んでいただきたい。